◎幸村終焉の地・大阪天王寺「安居神社」

大坂夏の陣で、幸村は徳川の主力が天王寺方面から進軍して来ると予想し、天王寺口(茶臼山)に布陣。真田隊3千は、家康だけにターゲットを定め一丸となって突撃を敢行し、とうとう家康の本陣にたどり着きました。戦列を整えて3度本陣への突撃を繰り返した。そしてついに家康の『馬印』(うまじるし、本陣の旗)が引き倒された。その時真田にこの首は取らせぬ!と踏み倒された馬印を見た家康は腹を切ろうとしましたが、これは側近たちに止められました。
決死の覚悟で臨んだ真田隊でしたが、多勢に無勢、次第に追い詰められ四天王寺に近い安居神社に撤退した。負傷した幸村は神社の側の畦(あぜ)で手当てをしていたところを越前松平隊の西尾仁左衛門に槍で討ち取られ、ここ天王寺が幸村終焉の地となりました。(享年48歳)

 

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◎“義”に生きた戦国最強の武将

夏の陣で幸村の武神ぶりを目の当たりにした島津家当主・島津忠恒(家久)は、故郷への手紙にこう記したといわれております。(以下抜粋)

「真田は日本一の兵(つわもの)。真田の奇策は幾千百。そもそも信州以来、徳川に敵する事数回、一度も不覚をとっていない。真田を英雄と言わずに誰をそう呼ぶのか。」

大坂の陣の後。家康は家来に「幸村の武勇にあやかれよ」と言い、その後「幸村の戦いぶりは敵ながら天晴れであり、江戸城内にて幸村を誉め讃えることを許す」としました。家康は本陣が崩壊するほど窮地に追い込まれながらも、騎上の幸村に同じ戦国の男として感嘆していたのかもしれません。

 

◎真田十勇士

真田十勇士(さなだじゅうゆうし)は、真田幸村に仕えたとされる、猿飛佐助(さるとびさすけ)、霧隠才蔵(きりがくれさいぞう)、三好清海入道(みよしせいかいにゅうどう)、三好伊三入道(いさにゅうどう)、穴山小助(あなやまこすけ)、由利之助(ゆりかまのすけ)、根津甚八(ねづじんぱち)、筧十蔵(かけいじゅうぞう)、海野六郎(うんのろくろう)、望月六郎(もちづきろくろう)10人の家臣のこと。

戦国時代末期、真田幸村は忍者を使っていたと言われており、このような物語が生まれました。伝承上の架空の人物と言えますが、歴史的な由来を持つ人物もいることも確かです。